【実存の三段階】キルケゴールの哲学からやり切る重要性を学ぶ

こんにちは。
セルフフラワリングの奥山あきひろです!

今日もぼくが夢を叶えるためにとても必要だなと思ってることについて、綴っていこうと思います。

前回は「天命の暗号」という本から、今までの人生をよくよく見てみると一貫してある人生のテーマがある、ということについて見てみました。

前回は人生単位で俯瞰する視点で見てみましたが、今回は体の中に入ったプレイヤーとして、実存的な観点から見ていこうと思います。

今日紹介するのは19世紀のデンマークの哲学者キルケゴールの思想です。

キルケゴールの哲学から学んだことは、今やってるいることがどんなに小さいことと思えたとしても、「やり切ること」の重要性です。

今回の記事は

  • 今取り組んでる課題が小さくて意味ないと感じている方
  • マンネリ人生でなく本気で人生を生き切りたい方

にぜひ読んでいただきたい内容になっております。

情報過剰の時代に役に立つキルケゴールの哲学

現在は情報社会で、自分が人生で味わったことのないたくさんのイメージが行き交っています。

それはそれでいいこともいっぱいあるのと思うのですが、高すぎる目標を持ったり、理想に至らない自分を卑下してしまう傾向がとても強いように思います。

昔の時代を体験したことがないので分かりませんが、情報があまりない世界では、目の前に起きる等身大の自分の人生がほとんどすべてだったのではないかと思います。

たまに読める本や映画などが、とてもありがたかったのではないでしょうか。

ぼくはかなりの理想主義だったので、いつも高い目標に向かって頑張ってきたように思います。

よくよく見るとコンプレックスの塊で、内に欠落感があるのもよく分からないで、こうなったら幸せになれるに違いな勝手なイメージを追い求めていただけだったんですけどね。

人生でたくさん失敗を重ねて、ようやくインフレーションをした自我が、針で刺されて空気が抜けるように取れてきて、等身大の自分に少しだけ近づいてきたように思います。

今日紹介するキルケゴールは、悩みや絶望にガッツリ向き合わされた大変な苦労した人生だったようです。

生まれつき病弱で、婚前交渉した父の罪に悩み、若い頃から罪の意識と死の不安と戦います。

そして最愛の婚約者とは、自分から「相手にふさわしくない」と一方的に断ってしまいます。

その後も新聞のゴシップネタで叩かれたり、インフレで財産を失ったりしながら、孤独の内に当時の腐敗したキリスト教を批判し、42歳で亡くなるという波乱万丈な人生でした。

それこそ人生にどう向き合えば良いか教えてくれるような哲学も友達もいない中で、自分の体験で持って新しい実存的な哲学を構築していきました。

そしてその個人の人生から打ち出した哲学が、哲学史的には当時全盛のカントやヘーゲルなどの合理主義を一区切りさせて、後の実存主義へとつながる新しい流れを作ることになりました。

キルケゴールは三つの成長段階を経て、人間はステップアップしていくというイメージを教えてくれました。

マズローの欲求五段階説とはまたちょっと違う角度なのですが、人生痛い思いをして学ばれてきた人はよくわかるんじゃないかなと思います。

キルケゴールの実存三段階

審美的段階

まずは人は若者のように、あれもこれもと欲求のまま本能のままに求め続ける段階があります。

ひたすら自分の夢と可能性を求めますが、結局オチとしては決して欲望は満たされることを知ります。

ポイントは自分が虚しくなって、すべてが手に入らないという体験をきっちりすることです。

そうしないと、頭でこうなることは分かっていても、どこかに可能性が残ってしまい、消化しきれないからです。

倫理的段階

求めても欲望が満たされないことを知ると、そこに反省が生まれ、今度は倫理的に正しい道を追求し始めます。

頭であれかこれかと考え、自分の生きる道を決めて行動します。

しかしこの道もやがて、自分が有限でできることは少なく、至らないことを思い知らされます。

この道の果てにも、やはり絶望が待っているのです。

宗教的段階

キルケゴールの時代はまだキリスト教全盛の時代です。

この後に出てくるニーチェは、キリスト教を完全否定するのですが、キルケゴールは「信仰」に希望を示します。

この段階でキルケゴールが感じたことは、今の宗教というものが力を失った現代と違うので、推測するしかないのですが、人にどんなに批判されようとも、自分が信じる道を(考えを手放して、大いなる存在と一体になりながら)選択していくということなのだと思いました。

アドラー心理学でいう共同体感覚のように、スピリチュアルでいう手放す感覚のように、自分という小さな範囲を超えた大いなる存在の意志というかミッションとつながり、越えていく。

しかしそこに自我がないというわけでなく、全我=自我のような、境界線はあるけれど、境界線を越えているような感覚なのだと思います。

勉強をいっぱいして、頭でっかちになってしまうと、知識だけであたかも悟ったかのような錯覚に陥ってしまうことがありますが、自分で肌で体験して初めて分かる境地なのだと思います。

今目の前にある課題をやり切る重要性

結局ぼくが、このキルケゴールの冒険を通して感じたのは、物事を「やり切る」ことがどれだけ大切かということです。

例えとして、小学校6年、中学校・高校で6年、大学4年を1年ずつクリアしていくイメージです。

小4の人だったら、目の前にある小4の課題に向き合えば良いということです。

どうしても情報だけはいろいろ入ってきてしまうので、中1の課題を知っていたり、高校卒業した後のイメージが入ってきてしまい、逆算して「あれもやらねば、これもやらねば」とか、「今のままではいけない」と思考にとらわれてしまいます。

そういうところから一歩距離を置き、今の課題と向き合うのが一番近道だと思います。

それに結局それしかできないでしょう。

小4が終われば、やがて小5の段階がやってき、体験すべきことを体験したら次は小6と、一段一段登っていく内に、いつの間にか「うさぎと亀」みたいに、高校を卒業して、大学を卒業してるものです。

「急がば回れ」です。

自分の理想が高くて、論理的にこんなことやっててもオチは見えてるというようなことがあっても、とにかくそこに欲求があるならば、失敗してもやってみるというのが一番いいと思います。

キルケゴールのように「あれもこれも」と自由に欲しいものを求めてみる。

そこでやりきらないと、いつまでもその段階をループし続けてしまいます。

まとめ

今日はキルケゴールの哲学から、やり切ることの重要性について見てみました。

とても単純な学びでしたが、ぼくは非常に重要なことだと思います。

人が背伸びしてるのってよく分かりますが、自分が背伸びしてしまってる時って、なかなか分からないものです。

結局等身大の自分の課題に戻ってきて、「今やるべきことをやる」ということを今まで何度も体験させられました。

今でも気が付くと、遠い目標を見据えて、先へ先へと焦って向かおうとしてしまうのですが、完璧主義は捨てて、キルケゴールを見習って、ひとつひとつ課題をクリアしていこうと思います。

次回からは、数回に渡ってアドラー心理学をシェアしていこうと思います。

今年一番といっていいほど、がっつりハマっているアドラー心理学ですが、かなり深く学びがいのあるコンテンツになっています。

それでは今日もお読みいただきまして、ありがとうございました!