【アドラー心理学】グループカウンセリングと瞑想的生活について

こんにちは。
セルフフラワリングの奥山あきひろです!

このブログは、夢を叶えていくのに必要なことを綴っているブログになります。

今日はアドラー心理学シリーズの3回目で、「瞑想的生活」というテーマについて書こうと思います。
(第一回目はこちら)

自己実現していくのに、心の落ち着きはとても大切な要素になってくると思います。

目の前のことに必死になるだけでしたらサルでもできますが(笑)、それでは大きいことは達成できませんので、しっかり落ち着いて、客観的に長い目で物事を見る能力が必要になっていきます。

心を落ち着かせるために、いつの時代ももっとも良いとされているツールが瞑想ですが、
アドラー心理学のこの本もここにつながってきました。

今回も紹介するのは、野田俊作さんが書かれたこちらの本です↓

アドラー心理学を語る②グループと瞑想
著者/野田俊作

第一巻がアドラー心理学の理論編だったとすると、第二巻目は実践編に入ります。

「西洋人のアドラーが瞑想?」と思われるかもしれませんが、アドラー自身は瞑想のことを知っていたのか不明です(笑)

この本はあくまでアドラーの教えを引き継いだ野田さんの実践バージョンなので、そもそものアドラーからある意味東洋的に進化しています。

ユング心理学の第一人者である河合隼雄さんも、ユングに東洋的アレンジを加えましたが、ユング心理学の第一人者である野田さんも、アドラーに東洋的アレンジを加えているところが面白いです。

多くの西洋の哲学者もそうですが、結局最後は東洋に辿りつくことが多く、日本をはじめ東洋というのは誇るべき精神文化の歴史を持っていることに、あらためて感銘させられます。

今回の記事は、アドラー心理学に興味を持ってる人はもちろんですが、

  • 行動をはじめても、長く続かず止まってしまう方
  • 瞑想など心を落ち着かせるツールに興味をお持ちの方

とに、是非読んでいただきたい内容となっております。

グループカウンセリングと瞑想の導入

アドラーの古典的なカウンセリングは、「ライフスタイル分析」ということなのですが、野田さんはそれからアレンジを加えて、グループ療法と瞑想を取り入れていたとのことでした。

ちなみにグループ療法を始めに開発したのは、アドラーとアドレリアン。

1900年頃から、心理学はフロイトにより無意識の時代に入ったわけですが、その当時は一対一でカウンセリングするイメージしかなかったそうです。

ところが町で実際に庶民にカウンセリングを施していたアドラーは、たまたま待合室とカウンセリングルームを仕切る仕切りがなかったのが始まりだそうですが、カウンセリングを聞いていた側も、同時に癒されるという不思議な現象が起きたということです。

10月にわたしもオープンカウンセリングに参加させていただいて、実際に体験させていただく予定です。

また同じようなカウンセリングを、以前ぼくも福岡で体験させていただいています。

舞台でクライアントが1対1でカウンセリングを行っているところを、30人位の観衆が見守る。

自分の問題をさらけ出すという、とても勇気のいる行為ですが、具体的な問題は違えど、誰の心にも少なからずある問題なので、一緒に問題を共有して、解決していくという過程はとても素晴らしく感じます。

野田さんは、人前でオープンにできないような問題は解決できないし、人前でオープンにできるようになった時にはすでに問題の半分は解決しているとおっしゃられています。

本当にそうだと思います。

不安と憂鬱と怒り

そして瞑想ですが、これは古来から伝わる地道ですが最強の解決法です。

ここでは不安と憂鬱と怒りについて、ためになる記述があったので共有しようと思います。

まずなぜ瞑想が良いかというと、今ここに集中するから

人間は頭の中で考えること、そしてそれによって発生する感情によって苦しめられます。

不安と憂鬱とは思考と関係した感情で、不安は未来のことを考えるから、憂鬱は過去のもうすでに起こってしまったことを思い返すから、沸き起こってくる感情です。

一方、怒りは今ここに起きている感情で、瞑想では消えないということです。

つまり不安や憂鬱といった問題は、瞑想で解決できるけれど、怒りに関してはそれを引き起こしているライフスタイルまで掘っていかないといけない。

そのように問題にあった対処法を切り分けているようです。

ちなみに野田さんの言う瞑想というのは、座禅のように座る瞑想だけではありません。

ダンスなどリズミカルな行動も、集中して行えば瞑想の中に入ります。

さらに歩行禅などと言われるように、集中して行うことはすべて瞑想と言えるのだと思います。

目標は必要?不必要?

今ここに生きられていれば、過去や未来に意識が飛んで、煩悩にとらわれることなく、幸せに生きられることができます。

もっと言うと、その時その時にいろんな感情と出会うことがあっても、そこで頭で考えて、執着することがなければ、苦しむことなく時は過ぎ去っていきます。

瞑想は日常的に絶えず目標を追求する意識を止めてくれます。

本当にこの本で書かれている瞑想的生活をイメージした時に、すべての悩みが解決する感覚になります。

それでは私たちの人生に、目標というのは不必要なのでしょうか?

やっぱり劣等感から出発して、理想の自分を目指すタイプの目標は、苦しみをもたらすし、嬉しくないですよね。

瞑想すると、劣等感がなくなって、容易に自己受容ができるようになると書かれています。

自己受容とは、不完全で至らない自分も受け入れてOKを出すということ。

それでは成長しないのではないか、と思ってしまいますが、まずは欠乏意識から脱却するのが順番としてはじめのように感じます。

瞑想することで、自分自身に対する態度が根本的に変わってくる

そうすると、まわりの人たちや、わたしたちを取り巻く社会に対する見方も根本的に変わってくると言います。

目標追求しなくなると、自分にも他人にも社会にも優しくなれる。

野田さんが言うには、人生目標=理想の自分がなくなれば、劣等感もなく、気が付くと共同体感覚に目覚めてしまうと言います。

そしてライフスタイルも、自然と不必要なものは手放していくことができ、第一巻で書かれていたように10歳くらいで固定してしまう性格も変わってしまうのでしょう。

まとめ

今日はアドラー心理学の一人者である野田俊作さんの本の、瞑想についての本を紹介させていただきました。

感想としては、「とは言っても」という言葉が自然に出てきてしまうのですが(汗)、これも自分の体験論から出てくる言葉なので、不完全であっても今ここに集中していくことをトレーニングすることによって、意識も自分が見ている世界も変化していくのだと思います。

そして、「嫌われる勇気」で書いてたような、複雑に見えていてものがシンプルに見える世界が待っているように思います。

人生目標を持つ、ということに関しては、ぼくはまだ手放すことができていませんし、まだその段階にきていないのかなと思います。

この目標というものにどう向き合うかについては、今後の課題です。

ただこの瞑想的生活ができるようになった時に、目標というものの質が、「絶対に叶えたい!」といったような執着のようなものではなく、

理想の自分というものには永遠にたどり着けないし、すべては諸行無常で移り変わるので、頭が考えたくなるような固定的な幸せというものはないということが分かりつつ、道具として使えるようになるのではないかという予感がしています。

「ブログを毎週1~2本書く」とか、「数秘術のレターを書き続ける」といった目標がないと、今のぼくの場合だれてしまいます。

そしてその小目標が、ひとりひとりの心が変革することによって、欠乏意識にとらわれた社会のあり方が変わるという大目標に、頭ではつながっています。

この日常的に目標を持って生きるということと、目標にとらわれず今ここに集中して生きるということが、矛盾なくつながるレベルに向かっていこうと思います。

三回に渡ってアドラー心理学の本に向き合ってきましたが、来週はそもそもの根本にある苦についておさらいしてみたいので、ぼくのバイブルの一つである「反応しない練習」について書かせていただこうと思います。

今日もお読みいただきまして、ありがとうございました^^