2013年に出版され、10年経った今なお書店の店頭に並ぶベストセラー本「嫌われる勇気」。
「人は変われる」し、必ず「幸福になれる」と断言するこの本ですが、そう簡単に人は変われないよというのが、ほとんどの人の実感ではないかと思います。
ではなぜ「嫌われる勇気」では、自信を持って人は変われると言っているのか?
この本のベースになっている考え方は、アドラー心理学です。
アドラー心理学が語っているひとつひとつの考え方を、理解して変えていくことによって、それが可能になっていきます。
今日はアドラー心理学の大きなポイントの一つである、「原因論」と「目的論」の違いを解説していこうと思います!
目次
「嫌われる勇気」の設定
「嫌われる勇気」は、アドラー心理学(とギリシャ哲学)をマスターした哲人と、コンプレックスだらけで人生に不満を持ち続けている若者が、古都のはずれの書斎で対話するという戯曲形式の本となっています。
青年があまりにも極端で面白い反応をするので、面白おかしく最後までさくっと読んでしまえます。
しかし未熟な青年が抱える問題や要素は、笑い事ではなく私たちの日常の考え方にこびりついている考え方なので、今の自分に照らし合わせて、「なるほど」と学びながら読み進めていくことができます。
だからこそ五夜に渡って二人が語りに語り合った後、最後に青年が変化する場面ではとても感動してしまいます!
「原因論」と「目的論」
「人は変われない」という立場を主張する青年は、一夜目にこんな例を出します。
青年の友人に、何年も自室に引きこもりになっている人がいる。
彼は外に出たいと心底願ってるし、できることなら仕事をしたいと思っている。
それには間違いがない。
しかし外に出ると、実際に手足がが震えだして、結局どんなに出たいという意志があったとしても、外に出ることができないのだと。
青年は、詳しくはわからないけれど、友人の過去にトラウマ的な出来事があったと仮定して、それが原因で外に出られなくなったのだと推測します。
「気持ちはとても分かる」というのが、多くの方の感想ではないでしょうか?
物理的に現象として表れているのだからどうしようもないし、仕方ないことだと思ってしまいます。
一方哲人は、過去の原因ではなく、今ある目的の方を考えていきます。
青年の友人は、不安だから外に出られないのではなくて、外に出たくないから不安という感情を作り出しているというのです。
発想の転換ですね。
言われた方は「いやいや、そんなことはない!」とか、「あなたは何も知らないくせに!」と反論したくなるところです。
しかしこの感情でさえも、自分が実は「変わりたくない」から生み出された感情であることが後々見えてきます。
ある意味、自分が逃げられなくなる恐ろしい心理学ですよね(汗)
でもこうやってあぶりだすことによって、自分が長年心の中で守っていた「言い訳」が浮き彫りになってきて、本当に変わりたいのか、変わりたくないのか、という分岐点に連れて行ってくれます!
人は感情を道具として使っている
アドラーのいう目的論は、特に斬新というわけではなく、考えれば誰でも発想できるようなものです。
しかし、それを自分の問題に採用したり、身につけるとなるとなかなか難しく感じます(汗)
「理屈と感情はそう簡単に割り切れるものではない」と考えてしまうのも、感情を大切にする日本人にはあるあるだと思います。
「嫌われる勇気」では、青年がカフェでウェイターにコートにコーヒーをこぼされて、自然に怒りの感情が出てきたというエピソードが書かれています。
しかしその自然に見える感情さえも、青年が道具として使ったものだと哲人は言います。
怒りに駆られて大声を出したのではなく、ミスを犯したウェイターに「自分の言うことを聞かせる」という目的のために、怒りという感情を捏造したのだと。
わたしも会社で、リーダーに怒りのこもった強い口調でものを言われて、強い口調で言い返す、という場面が多々あります(汗)。
これも主観では「向こうが強くいってきたから、自分を守るために強く言い返さなければいけなかった」と思ってしまいます。
しかしそこには「相手の主張どおりに従いなくない」「自分の主張を聞かせたい」という強い目的が見えてきます。
そして、どうしても訓練は必要なのですが、「自分の主張を伝えたい」のであれば、怒りに怒りを返すという古いやり方ではなく、落ち着いて考えればもっと最適な方法が見てくる、と思いました。
原因論に固着したくなる理由
目的論で物事を考えるようになると、原因を過去の出来事のせいにしなくなりますので、健全な自己責任を持った考え方ができるようになります。
また「こうなりたい」と決めた目標に到達できる確率も、確実に上がると思います。
でもなぜ人間はなかなか「原因論」的考え方から抜け出せないのか?
一つには、日本が仏教国で「因果応報」という考え方が根付いているからかもしれません。
もしくはフロイト的なトラウマの概念を重視する心理学が、20世紀に定着したからかもしれません。
という感じで、わたしもいとも簡単に原因を探る考え方が出てきてしまいます(笑)
と気づいたところで、「わたしはどうしたいのか」という今いる場所に戻ってこれます。
ここがアドラー心理学の健全なところだと思います!
常に気づいては戻っての反復の繰り返しですが、気づくと今ここに戻ることができます。
目的論で考えることができるようになれば、早かれ遅かれ確実に変化していくことができる。
原因論で考えれば、今までどおりの自分でいることができる。
誰でも「よりよい自分」に変化していきたいというのが本音だと思いますが、そこに必要なのは「勇気」であるとこの本では言っています。
原因論から抜け出したわたしのアプローチ
少し脱線しますが、「とはいっても」と、なかなか原因論的思考から抜け出せない時のアプローチについてご紹介します。
わたしも昔に比べれば、かなり目的論的な考え方ができるようになりましたが、当初はどう考えても正当に思える自分の思考(言い訳)にとらわれて、なかなかうまくいきませんでした。
「変わりたい自分」と「変わりたくない自分」が、心の中で綱引きしてるように感じた時、「どちらでもいいよ」と心に言ってあげます。
そうすると心が楽になって、自分の心地の良い方向に向かってくれます!
実は変わりたいと思っているのは、劣等感を勝手に感じている「頭」だけだったことに気づくこともしばしば。
とにかくエネルギーがニュートラルになると、物事が良い方向に行きます!
あるいは今抱えてる問題や、どうにもならない状況を、一旦手放して(捨てて)しまうこと。
それでも戻ってきたものには向き合えばいいし、戻ってこなかったことに関しては「どうでもよかったことなんだな」と私は判断しています。
そしてニュートラルになったところで、「今ここから自分はどうしたらいいのだろう?」と目的を決めて、目的論に沿って生きる。
そうしていくうちに、自立しながら真っ直ぐ生きることができるようになりました!
まとめ
今日は、私たちが日頃使ってる原因論と、アドラー心理学の根幹となる目的論 の違いについて解説しました。
「嫌われる勇気」はとても素晴らしい本なのですが、読んで納得するだけで、身につけないのはあまりにももったいないことだと思っています!
是非、目的論を自分の日頃の問題や、考え方に照らし合わせて使ってみた時に、気づきが起きると思いますので使ってみてください。